「離島の子どもたちに本物の音楽を聴かせることで、大きな夢を与えたい」という想いで、地元の若者が2005年に立ち上げた宮古島のビーチフェス「MIYAKO ISLAND ROCK FESTIVAL」。
昨年は4年ぶり15回目の開催となったフェスだが、今年は2024年10月19日(土)に、沖縄・宮古島コースタルリゾートヒララ トゥリバー地区ヘッドランド特設会場にて開催される予定となっている。
魅力的なロケーションやラインナップで島内外から観客を惹き寄せている「MIYAKO ISLAND ROCK FESTIVAL」を主催する野津芳仁氏に、フェス開催のきっかけや、ブッキングの裏側、さらに地元や行政との関係について語ってもらった。
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島の若者が自主的にはじめた”手作り”フェス
-MIYAKO ISLAND ROCK FESTIVALはどういった経緯でスタートしたのでしょうか?
私は2代目の実行委員長なのですが、初代は平良直也さんという、僕らの中ではカリスマ的な存在の先輩がこのフェスをスタートさせたんです。「宮古島の子どもたちに本物の音楽を聞かせたい」という思いで、フェスの前身となるイベントを2004年に開催して、ある程度成功したので、翌年大きなフェスをやろうということになりました。ただ、フェスを開催するとなると、仲間内だけではできないということで、ホテル業、バス会社や旅行業の方など、 様々な業種の方に声をかけました。
-音楽業界の方ではないメンバーで構成されていたんですね。平良さんや野津さんはどんなお仕事されていたのですか?
(平良)直也は古着屋を営んでいました。僕は東京にいたのですが、ちょうど島に戻ってきたタイミングで同級生に誘われてメンバーに加わりました。実行委員のメンバーは本当に年齢層がバラバラで、こういうのって友達同士で始めるのが多いと思うんですが、うちは最初からそうではない人たちが集まってるというのが面白かったです。
-そんな中、初回からかなり豪華なラインナップでしたが、ブッキングはどのように行ったのでしょうか?
初代実行委員長の伝手で、1回目からORANGE RANGEやMONGOL800などのアーティストが出演してくれました。ただ、運営に関しては何も分からない状態で、最初は沖縄本島でイベントを手掛けているチームに声をかけて、制作や舞台などのノウハウを学ばせてもらいました。そうするうちに、3回目ぐらいから自分たちでもできるんじゃないかと。ボランティアのフェスなので、徐々に削れる予算を削っていくうちに、今のようなボランティアのメンバーだけ回す形になっていきました。
-フェスをスタートした当初の地元の反応はどうだったんですか?
当時は宮古島にこんなに多くの一流ミュージシャンが来るということがなかったので、初回からチケットが足りないくらいでした。1回目は9割が島内からのお客さんで、2回目は、その話題を知った島外の方が来るようになりました。3回目から半々になって、いつしか島外の人と割合が逆転する形になりました。その時は、「島のために始めたのに島の人が来ないのか…」という複雑な気持ちになったのを覚えています。そんな頃に、コロナ禍の前にMERSが流行したときに、島外からのチケットが全然売れなくなりました。 そういったこともあって、やっぱり地元の人が来ないと成り立たないっていうことに気づかされて。地元の人が来ないってことは、地元の見たいアーティストを呼べていない自分たちの責任でもあるし、ないがしろにした自分たちの責任でしたからね。その際にもう1回実行委員みんなでエンジンをかけ直して、 「宮古島の子どもたちに良い音楽を聴かせたい」という原点に立ち返って、島の人が喜んでくれるラインナップを考えようということになりました。その考え方は現在も継続しています。
-環境に配慮した取り組みも行われていますが、それも初期から行われていたのでしょうか?
環境に配慮した取り組みをフェス全体として行いはじめたのは途中からなのですが、街で清掃活動をしたり、ビーチを掃除したりという小さなことから始まって、今ではプラスチックカップを減らすような活動もしています。あくまでいかに宮古の子どもたちに楽しんでもらうかということをメインにしつつ、島のためにできることをコツコツ続けています。
-そういった努力もあって、コロナ禍前には行政からも感謝状が送られるようなフェスになっていったわけですね。
立ち上げた当初は若者が急に島で始めたイベントだったので、役所などから一切の支援もなく、僕らが要請に行っても門前払いというような状況でした。それが徐々に継続していくことによって、皆さんが認めてくれるような流れに徐々になっていきました。コロナ禍前には宮古島市から感謝状をもらったのですが、そのときはみんなですごく喜んだのを覚えています。あんなに相手にされなかったのに、10年以上続けているとこうやって認めてもらえるんだなって。元々認められるためにやっていたわけではないものの、やはり嬉しかったですね。
-そのようなフェスの成長はもちろん、宮古島を取り巻く状況も変化したとお聞きしています。
フェスを始めた2005年〜2006年というのは、6月は観光客が本当にいない時期だったのですが、僕らがフェスをやってからどんどん夏の観光シーズンのピークが前倒しになっていきました。飛行機の便数やホテルの数なども増えました。そうなってくると、今度は逆に、 アーティストやスタッフの移動などをその時期に確保するのが大変になっていって、お客さんが来れないんじゃないかというくらい混むような状況になっていきました。
-以前の6月開催から、秋に開催時期を変えたのは何か理由があったのでしょうか?
本当は時期を変えたくなかったのですが、コロナの規制が緩和されたのが、春だったので、1年半待って今まで通り6月にやるか、秋にやるかの二択しかなかったんです。実行委員で話し合って、1年半は待てないということで、前倒しでやろうとなりました。今まで、”日本一早い夏フェス”と謳っていたのですが、逆に日本一ではないかもしれないけれど、10月に遅い夏フェスとしてやろうと。10月開催にしたらメリットも多くあって、暖かいとはいえ、6月よりも過ごしやすいので、熱中症などの心配も少なく、実際に倒れる方も減りました。これからは10月開催で固定することになるかと思います。
積み重ねてきた20年の歴史。甲本ヒロトさんの言葉。
-2005年から続けてきて、印象に残っている出来事などはありますか?
コロナ禍で開催できない年もありましたが、普通にやっていれば、来年で20年目なんです。ということは、今の中高生は生まれたときからこのフェスがある。そういう若い世代がフェスに出たいと言ってくれたり、実際にバンドでオープニングアクトをやったりというようなことも起きています。軽音楽部が盛り上がっているとか。なので、いい意味で影響は与えているんじゃないかと思います。あと、印象に残っている出来事といえば、うちの実行委員のメンバーの息子さんがバンドをやっていて、忖度なしでオーディションに受かってフェスのオープニングアクトで出演するってなったとき、舞台袖で実行委員のみんなが泣いていたことですかね。全員号泣していました!
-まさに、最初に掲げていたフェスの目的が達成されていますね。そういった若い世代はもちろん、街にとっても、フェスが当たり前の存在になっているんですね。
そうなっていると思います。宮古島市の年間のスケジュールの中でも載っていますし、行政としても音楽の島っていうのをアピールしています。そこは、本当に積み重ねでこういった状況になったのかなと思っています。
-コロナ禍を経て、フェスを運営や街との関わりに変化はありましたか?
僕らが思っている以上に、「いつフェスやるんですか」という声が多かった。意外と島の人がこのフェスを求めてたんだというのに気づいたのもコロナの時でした。あと裏話なのですが、実はフェス自体は10年で辞めるという話もありました。そんな10回目が終わった時に空港で甲本ヒロトさんと話す機会があって、その時にヒロトさんが僕に「君たちはすごいいいことやってる。俺はいつでも戻ってくるから頑張って続けてね」って言われて握手されたんです。辞める予定だったのに、辞められなくなりましたし、その出来事はみんなにも伝えました。大変なので、毎回終わるごとに辞めようと思うんですけど、結局辞められないといか。フェスが終わった後に、皆さんから「ありがとう」と言ってもらうと、また実行委員のメンバーのテンションが上がるんですよ。その繰り返しでここまで来てる感じですね。
-その繰り返しで、世代交代しながら、 島にとって必要なものになっていってるんですね。
実は実行委員の世代交代はできていないというのが課題で…。ちょっとフェス自体が大きくなりすぎて、引き継ぎができない状況になっているんです。そこをどうするかっていうのを考えているところです。もちろんこのフェスを継続させていくというのもありつつ、最近は、若い世代が別のフェスを立ち上げて、失敗しながらまた大きくなっていくみたいな形の方が面白いんじゃないかっていうことも話したりしています。