アジアと日本の音楽シーンを繋ぐキーマン・沖縄Music Lane主催・野田隆司氏インタビュー

2025年1月に沖縄・コザにて開催される「Music Lane Festival Okinawa」は、沖縄とアジアの音楽ネットワークを構築することを目的とした国際ショーケースフェス。ショーケースライブ、アーティストと音楽関係者によるミーティング、カンファレンス、ハッカソンなどを開催し、インディペンデントアーティストが海外の新たなマーケットに進出するきっかけとなる”場”として、注目が高まっている。

今回はそんな「Music Lane Festival」を主催する野田隆司さんにインタビューを敢行。野田さんがイベント、そしてフェスを作るようになったきっかけから、コロナ禍で加速したアジアの音楽シーンとの繋がり、そして今後の「Music Lane Festival」の展望までをじっくり語ってもらった。

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インタビューされた人
野田隆司 / Ryuji Noda
桜坂劇場 / Music Lane Festival Okinawa / Sakurazaka ASYLUM / ミュージックタウン音市場 ディレクター・プロデューサー

2014年頃から、沖縄とアジアの音楽ネットワーク構築を始める。2016年からアジアの音楽関係者を集めた音楽カンファレンス「Trans Asia Music Meeting」を開催。2023年には、国際ショーケースフェスティバル「Music LaneFestival Okinawa 2024」をスタート。このイベントをきっかけに多くのインディペンデント・アーティストが、海外フェス出演などのきっかけを掴んでいる。桜坂劇場(沖縄県那覇市)は、映画館ながら、年間50本以上のライブイベントを開催。地元はもちろん国内外のアーティストがジャンルを越えて出演。毎年2月には、周辺のライブハウスやカフェ、バー、公園などを周遊するサーキットフェス「Sakurazaka ASYLUM」を開催。


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インタビューした人
津田昌太朗 / Shotaro Tsuda

Festival Life編集長。イギリスの音楽フェス「グラストンベリー」がきっかけでロンドンに移住し、海外フェスを横断する「Festival Junkie」プロジェクトをスタート。2019年に120以上の海外フェス情報を網羅した『THE WORLD FESTIVAL GUIDE』を出版。2024年4月には国内フェス情報をまとめた『フェス旅 日本全国音楽フェスガイド』を上梓。

イベンターとしての経験を積んだ学生時代

-まずは野田さんの経歴をお聞きしてもよろしいでしょうか。

自分は長崎県の佐世保出身で高校まで地元にいたのですが、大学が琉球大学だったので、そのタイミングで沖縄に来ました。もともと音楽が好きで、在学中からプロモーターやイベンターのところでバイトをしたり、自分たちでイベントを企画したりしながら、学生時代を過ごしていました。

-大学卒業後は、どのような道に進まれたのでしょうか?

大学卒業後は旅行会社に就職して2、3年ほど働いていました。旅行会社では地元のイベンターと、当時では割と珍しかったファンクラブツアーみたいなものを作って、リゾートホテルに300~400人くらいのお客さんを呼んでパーティーをやったり、ファンクラブ限定のライブをやったりということをしていましたね。

-旅行会社の社員として、イベントに関わるお仕事もされていたんですね。

また当時は並行してフリーのライターの仕事もしていて、エフエム沖縄の番組の原稿を書いたりもしていました。その後、旅行会社を辞めて、 友人と編集プロダクションを始めたんです。沖縄は、90年代前半くらいにタウン情報誌や雑誌といった紙媒体がすごく増えてきたんですけど、プロとしてやっているところが全然なかったんです。ちょうど1992年が沖縄の復帰20周年の年だったので、それに向けて、旅行のガイドブックなどもたくさん出てきて、そういった仕事がたくさん入ってきました。

-そこから、どのようにしてイベントを主催したり、ライブハウスを運営していくところに繋がっていくのでしょうか?

ライターって時間的にすごく自由じゃないですか。かつ、音楽関係のインタビューが多かったので、アーティストさんとの交流が増えていきました。当時は沖縄はツアーで回ってくるのも大変でしたし、特にインディペンデントのアーティストっていうのは、ライブの機会もあまりなかったんです。そういった事情もあって、はじめは知り合いに紹介される形で大塚まさじさん、加川良さんといったフォークシンガーの方のライブを企画するようになりました。

-そうやって本格的にイベントに携わるようになっていったんですね。

イベントは学生の頃からやっていて、イベンターさんのところでもバイトをしていたので、なんとなく様子は分かっていたのですが、フォークシンガーのライブのお手伝いから始めて、徐々に本数が増えていきました。あと、那覇の県庁の前にある「パレットくもじ」という大きいビルの中に、デパートリウボウという沖縄で1番大きいデパートが入っていて、その中にリウボウホールっていう100人キャパぐらいの小ホールがあったんですね。今の会社の社長で、映画監督をやっている中江裕司と一緒に、そこのライブや映画のブッキングをやっていましたね。

Sakurazaka ASYLUM立ち上げ

-そこから「Sakurazaka ASYLUM」(アサイラム)を主催するまではどのような流れがあったのでしょうか?

リウボウホールと並行して、桜坂劇場を2005年に始めました。前の年に、元々あった映画館がなくなるから良い形で引き継げないかという話があって。地方でミニシアター系の映画館は、中々成り立ちにくいのですが、音楽イベントだったり、カフェだったり、市民大学的なものだったりとか、そういう複合的な文化施設にしていかないと難しいだろうという話になりました。

-劇場の運営からイベントに繋がっていくんですね。

その中で、最初は 2007年に「荒野のアサイラム」というイベントをやり、タテタカコさんと、eastern youthに出演してもらいました。当時、eastern youthが奈良美智さんのドキュメンタリーのテーマ曲を作っていたので、奈良さんの映画の上映をして、電話を繋いでトークイベントに参加してもらったりしました。なんとなくそれが上手くいって、翌年からアサイラムという名前でイベントをやるようになったんです。

-当時はまだ屋内でやっていたんですね。

そうですね。2008年の2回目のアサイラムは今のようなサーキット型ではなく、映画館と同じことをやっていたんです。映画館の映像コンテンツって、1日に4回とか5回も回せるじゃないですか。ライブもそういう風に1日に1つのホールで何回もやれたら面白いかなという発想で、昼、夕方、夜の1日3回回しとかで、それぞれ異なる人のライブをやったりしました。その時のフライヤーはこんな感じでしたね。

こういう風に劇場の中でライブを何回も回すというのがアサイラムのはじまりなんです。翌年、サーキットフェスという存在を知って、アサイラムもサーキット形式になっていきました。2025年は2月に開催が決定しています。桜坂劇場とその周辺(最大9会場)でライブやトークイベント、マルシェが楽しめます。

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