10年前、19歳という若さで「AOMORI ROCK FESTIVAL 〜夏の魔物〜」というフェスを主催し、フェスシーンで一気に注目の的になった成田大致氏。それから一度も休むことなく青森でフェスを開催し続け、誰もが予想しない個性的なブッキングに加え、自身のプロレス的な言動で常に注目を浴び続けてきた。最近では、バラエティー番組「アウトデラックス」に出演するなど、その独特なキャラクターは10年前から健在なわけだが、こと自身の音楽に関しては順風満帆といったわけではない。
バンドの解散や度重なるメンバーの脱退を経て、自分の本当にやりたいことを模索したここ数年。多くの挫折を味わいながらも、ついに今月、自身が主催するフェス「夏の魔物」と同じ名前を背負ったユニットで1stアルバムをリリースした。今回のインタビューで話を掘り下げていくと、やはり彼の発想の根幹には「フェス」的な要素が散りばめられている。まさに「フェスな人」である成田氏に、自身の音楽活動、そして彼にとっての「フェス」を赤裸々に語ってもらった。
夏の魔物・成田大致氏にインタビュー
——この「フェスな人」シリーズで初となるフェス主催者をお呼びしました。今日はよろしくお願いします。
夏の魔物のボーカルで、同じ名前の「夏の魔物」というフェスの主催者もやっている成田大致です。よろしくお願いします。
——Festival Lifeの読者にとっては、フェスの「夏の魔物」の印象が強いと思うのですが、ユニットとしての夏の魔物について、結成のきっかけから聞かせてもらえますか?
くるりさんの「京都音博」、氣志團さんの「氣志團万博」ってフェスにホスト役がいるじゃないですか。「夏の魔物」というフェスにはそれがないなと思って。俺自身音楽活動もしていたんですけど、そこに対する負い目があったんで、そこをフィーチャーもしたくないなと思ってホストユニットを作ったのがはじまりですね。
——以前はTHE WAYBARKというバンドで「夏の魔物」にも出演していましたが、そのバンドがホスト役という位置付けではなかったんすね。
ホスト役ではなかったですね。そもそも僕は見ての通り「酒・タバコ・ロック」みたいなものとほど遠くて。当時モッズスーツを着ていたからミッシェルとかハイヴスみたいなことをやりたいんだろうなってみんな思ってたと思うんですけど、聞くのも見るのも好きだけど自分自身はそんな感じじゃないなって思って。ライブとか作品を作っていく中で、本来の自分とものすごく遠いなって感じてたんです。ロックンロールは好きですけど自分でやるには・・・
——それで一気にスタイルを変えたんですね。
そうです。「実はこういうのやりたいんだ」って当時のバンドメンバーに言ったんですよ。それからバンド名をSILLYTHINGに変えて、アニソンとかアイドルソングとかロックとか、自分がやりたいことを全部ぶち込んだアルバムを全力で作ったんです。ただそれを今までモッズスーツ着ていた人たちにやれって言ってもできないというか。フランス料理作っていた人に中華料理作れっていうようなものですからね。俺が表現したかったものはバンドという形でやるには難しかったんですよ。
——そうやって今の夏の魔物の原型が出来上がっていくわけですね。
作品としては未完成のまま世に出したというか、「何かをやりたいんだろうだけど、結局大致は何したいの?」って言われることがその当時本当に多くて。
——SILLYTHING時代はまだ模索中という感じでしたよね?
そうなんですよね。やっぱり俺が求めていたのはソロ的なことではなくて一緒に作る”バンド感”だったんですよね。それってサポートメンバーだと難しい。漠然とやりたいことがあるんですけど、どうすればいいかがわからなかったんで、当時は、作品とライブ、ビジュアルをリンクさせることができなかった。自分で自分がわからなくもなったりして。ただその時でもやりたいことははっきりあった。ただただやり方が分からなかったんですよね。
——バンドじゃなかったと。
そうなんです。俺がやりたいことはバンドじゃ表現しきれないということにやっと気づいて。それで打ち込みに移行していったんですよ。まあ、打ち込みのやり方もわからないんですけど(笑)
——それまで直球のバンドマンでしたもんね。
自分は楽器もできないし、曲は作ってるけど鼻歌なんで、とにかく作り方が分からなかった。なんて言えばいいんだろう、打ち込みをやるにしてもラーメンで言ったらトッピングを全部載せる感じでしたね(笑)卵も海苔も全部マシマシにしたら食べづらいですよね。そういう感じで色んなものを加えていって、当時はそれでいいと思ってたんですけど、どんどん伝わらなくなって、音楽からも離れていっちゃったんですよ。作品が完成しても打ち込みで無理やり作ってるんで、ライブで歌える子がいない。俺もバンドやめてからは前に出て歌うのをやめてたんで。
——当時はあえて端にいたようなイメージがありますね。
そうですね。ジャケットとか写ってても、半分見切れてるみたいな。みんなを盛り上げたい気持ちが強くて、一歩引いて盛り上げるような立ち位置にいたんです。ただ、2014年の「夏の魔物」終了後にメンバーほぼ全員がやめてしまったんです。
——そんな中、現メンバーでもある大内さんは残りましたよね。
そうなんです。そんな誰もいない中で大内さんだけ残ったんです。そうなったら俺歌うしかないじゃないですか(笑)
——そもそも大内さん(大内雷電(ライディーン))とはどうやって出会ったんですか?
そもそもはツイッターで大内さんをお気に入り登録してチェックしていたんですけど、彼がそのときやっていたバンドを辞めるっていうんで一緒にやろうって突然誘ったんですよ。全く面識なかったんですけど、タイムラインで見てて趣味が合いそうだから誘ったんです。会ってみたらやっぱりその感覚は間違ってなくて、それ以来ずっと一緒ですね。一緒に絵を描くにあたって感覚を共有できる大切な相棒なんですよ。
——アントンさん(アントーニオ本多)はどういうきっかけで?フェスの「夏の魔物」ではMCをしていましたよね。
そうですね。加入のきっかけはSILLYTHING時代にアントンさんに歌詞を書いてもらったんですよ。そのときに漠然とアントンさんと何かやりたいと思って、今に繋がったって感じですね。ここにたどりつくまでいろんなメンバーの変更とかありましたけど、俺が一緒に何かやりたい人と必然的に繋がっていったんです。自分が迷っていたときに、ふらっと行った大森靖子さんのライブで歌っていた塚本舞ちゃんと出会ったり。メジャーというフィールドで戦うなら、いずこねこのマリちゃんが絶対必要だと思って連絡したりだとか。
夏の魔物 「SUNSET HEART ATTACK」
——なんだかフェスのブッキングみたいですね。自分が出したい人を出すのがフェスで、自分がやりたい人とやるのがバンドみたいな。
そうですね。夏の魔物っていう名前にしたり、自分が真ん中に立つことを選んだことも全部フェスとリンクしているのかも。
——個人的には「夏の魔物」って名前つけたことで吹っ切れた印象を受けました。
そうですね。歌に真摯に向き合うこともなかったんで。都度都度一生懸命にやってはきたんですけど、改めて歌いたいことがあるとか、伝えたいメッセージがあるとか、普通はそういうことがあってバンド組むじゃないですか。でも当時の俺にはそれが欠けていたんで。自分のバンドだけど自分から遠かった。そういう意味で吹っ切れたのかもしれませんね。今はどこまでいっても等身大なんですよ。