今週末開催「朝霧JAM」主催者インタビュー | フェスだからこそできる地方創生のかたちとは?

「FUJI ROCK FESTIVAL」(以下、フジロック)を主催するスマッシュが手がけるもうひとつの人気フェス「“It’s a beautiful day” Camp in 朝霧JAM」(以下、朝霧JAM)。2001年の初開催以降、フジロックとともに日本のフェスシーンを牽引し、キャンプをしながら音楽を楽しむ”キャンプインフェス”というスタイルを定着させた。

富士山を一望するロケーションの魅力も相まって、音楽フェスにとって肝である出演アーティスト発表の前にチケットが完売する年もあるほど、ファンに愛されている日本屈指のキャンプインフェスだ。

そんな人気の朝霧JAMだが、ここ数年は苦境に立たされていた。2019年には台風の影響で開催中止、さらにコロナ禍で2年にわたり開催できず、存続の危機すらあったという。そんな朝霧JAMを支えたのは、主催者と共に20年にわたり一緒にフェスを支え続けてきた地元のボランティア団体の存在。

今回は立ち上げから現在にいたるまで朝霧JAMを統括しているスマッシュ執行役員・石飛智紹に、開催のきっかけ、成功の礎となった地元/ボランティア団体との関係、コロナ禍からの復活から今年の開催までのストーリーを語ってもらった。

嵐のフジロック後に見つけた朝霧高原。地元有志と思案した新しいフェス

1997年、嵐のフジロック(※)が終わったあと、弊社代表の日高が富士山周辺でフジロックの代替え地を探し歩いてる中で、朝霧高原にたどり着きました。

日高自身が酪農地帯の農家さんを直接尋ねて「ここでフェスティバルをやりたい」という構想を話してまわったそうですが、ほとんど相手にされませんでした。それもそのはず、当時(90年代後半)は、今と違って、「フェス」という文化自体が認知されていないですし、開催時の評判などを受けて地元の人の反応は必ずしも良いものではありませんでした。

そんな折に、たまたま静岡のフジロックファンの方から、秋鹿博さん(現在の朝霧JAMの実行委員長、当時は富士宮市観光協会会長・静岡県会議員)を紹介してもらい、朝霧という場所との関係づくりがスタートしました。開催場所となる地元有志の方とも徐々に関係を作っていったりする中で、1999年に地元有志の方々がフジロックを視察にきてくれることになりました。1999年といえば、フジロックが苗場に移った初年度。現在のフジロックに続いている、「自然の中で音楽を楽しむスタイル」や「1年目の反省を活かしたゴミひとつ落ちていない環境」を実際に見てもらえたことから、朝霧開催のイメージが共有され、物事が前向きに進むようになりました。

もともとはフジロックの開催候補地として出会った朝霧でしたが、苗場初年度の成功を受け、フジロックは苗場で定着。一方で朝霧では、フジロックが移設できないのなら、朝霧ならではの新しいフェスをスタートできないかという話が地元から挙がってきました。それが朝霧JAM誕生のきっかけです。

(※)1997年の初開催となったフジロックは台風直撃の影響で2日目が中止となり、翌年以降の会場変更を余儀なくなされていた

強引に決行した初開催は課題点だらけ。反省を踏まえ、今や国内屈指のキャンプインフェスへ

初開催は2001年。地元有志の後押しがあったとはいえ、まだフジロックも開催から5年未満、苗場に移転してから3年目というタイミング。しかもフジロックが終わって3ヶ月後の秋に新たなフェスを興すということに、我々チーム内でも疑念や反対がありました。けんけんがくがくの議論の後、結局、初年度は9月中旬に開催発表して、10月中旬に本番という、かなり強引なスケジュールで決行しました。

「車で来てもらうこと、キャンプをすること」を全面的に打ち出して、「テントを積んで、仲間を呼んで、車で来いよ、朝霧ジャム」というキャッチフレーズで発表を行いましたが、券売としては2000人とふるいませんでした。当時は、オールナイトでの開催だったのですが、運営から連絡がしっかり行き届いてなかったため、近くの牧場主の方が怒ってステージに上がりDJをストップしたなんてハプニングもありました。

そういったことの反省を踏まえ、「ご迷惑は最小限に留める」ことを主眼に地元への報・連・相を密にして、徐々に今のスタイルに整えてきました。

来場者も2年目、3年目と開催を重ねるうちに、4000人、8000人と倍々に増えていきました。2000年代中盤からのアウトドア、キャンプブーム、そしてフジロックが10周年を迎える前後から、日本国内のフェス文化も成熟期に入りました。最初は「朝霧JAMはフジロックの打ち上げくらいのゆるいテンションでスタッフも楽しんでやれればいいんじゃない」というようなことで始まりましたが、回を重ねるうちに規模も大きくなり、出演者もケミカル・ブラザーズ、ジャック・ジョンソンといった海外の大物も出演してくれるようになり、毎年安定して1万人以上が来場するフェスになりました。

またこの頃から朝霧JAMの人気を物語るエピソードとしてよく挙げられるようになったのが、出演アーティストの発表前にチケットが売り切れるというもの。「朝霧JAMの雰囲気が好き」という方や「毎年、ラインナップが信頼できるから」という嬉しい声をたくさんいただきますが、裏話をすると、単純に出演者の発表が間に合わなかったという年もありましたから、発表しないということは意図的ではないんですよ。そんな中で朝霧JAMを信頼してチケットを買ってくれる皆さんには本当に感謝しかありません。

地域と共生する朝霧JAM。ボランティアと地元産品の力

朝霧2023

朝霧JAMがしっかりと継続して、定着したものになっていく上で欠かせない存在が、音楽フェスを一緒に運営するためのボランティアチーム、朝霧JAMS’(ジャムズ)という団体です。コアメンバーは多いときで40人くらい。地元の若手の皆さんが年間を通して活動してくれていて、当日手伝ってくださる百数十名のボランティアを募集することに始まり、開催時の受付、人流整理、ゴミゼロナビゲーション、キッズランドの運営から救護まで、幅広く運営に携わっています。「笑顔と元気のおもてなし」を合い言葉に、自然で素朴に運営をサポートしてくださる姿はお客様にも共感を呼び、他にはない素晴らしいオーラを朝霧JAMにもたらしてくれています。

音楽フェスにボランティアが参加していることはよくありますが、こういった形で運営主体としてフェスを支えフェスの雰囲気までを模している例はあまり聞きません。卒業メンバーからは他のフェスを立ち上げた者もいたりして、お互いに自分たちのフェスに活かし合っているというようなこともありました。ですから、直接的、間接的に「地域×フェス」、「フェス×ボランティア」という取り組み事例としても、取り上げてもらうことも増え、日本全国のフェスに少なからず影響を与えているのではないかと思います。

フェスを通して地域に関わったり、その地域のことをより好きになったり、フェスを起点に関係人口を増やしていこうとする取り組みを最近よく聞きますが、朝霧JAMは早い段階からそれらを意識的に実行できていたと思います。

また、人という部分だけでなく、地元の名産である「牛乳」は朝霧JAMの主要なコンテンツのひとつでもあります。会場内では、朝霧高原の牛乳を使ったクリームシチューやミルクラーメンなどの地元メニュー、ヨーグルトやシュークリームなどの乳製品も楽しめます。「朝霧に来たら牛乳を飲もう」を合言葉に「牛乳キャンペーン」を行うなど、地域とともに盛り上がれるような取り組みも継続しています。今年からは、富士宮市の「ふるさと納税」の返礼品としてチケット等を提供することにより、その牛乳キャンペーンを一歩先に進めようとしていて、富士宮市はすでに寄せられた寄付金を全て現在苦境にある「酪農支援」に充てることを宣言しています。

地元の方々に支えてもらって、このフェスが継続できているので、フェスからも地域に貢献できるような取り組みを積極的に行っていくのも朝霧JAMの使命のひとつだと考えています。

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コロナ禍の苦悩、そして完全復活へ

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